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島崎藤村「初恋」を連ごとに細かく分析・解説する【深読み文学】

完熟した林檎の赤は、何とも色っぽい

林檎のイメージ

 

 

予備知識

本文の分析の前に、まずは「初恋」が生まれた時代背景などに着目してみましょう。

 

島崎藤村はこんな人

島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日〈明治5年2月17日〉 - 1943年〈昭和18年〉8月22日)は、日本の詩人、小説家。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾の中山道馬籠(現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ。

『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などがある。

島崎藤村 - Wikipedia

詩人・小説家。長野県生。本名は春樹。明治学院在学中に洗礼を受けるとともに文学への関心を強め、北村透谷らと「文学界」を創刊。また詩集『若菜集』で浪漫派詩人として大きな業績を残した。のち散文に転じ、『破戒』で自然主義の小説家として出発する。昭和四年から「中央公論」に連載された『夜明け前』は自伝的藤村文学の集大成となった。芸術院会員。昭和18年(1943)歿、72才。

島崎藤村(しまざき とうそん)とは - コトバンク

ここでの注目ポイントは、「若菜集」「ロマン主義

 

「初恋」は若菜集に収められている詩の一つ

 『若菜集は、明治30年8月に刊行された詩集。西暦でいうと1897年で、日清戦争が明けて間もない時期でした。このような厳しい時代の逆風に吹かれながらも、当時弱冠25歳島崎藤村は『若菜集』を刊行します。

 そして、『若菜集』に収められている詩の中でも「初恋」は抜きんでて有名で、今なお教科書などでよく見かける近代文学の顔」です。

 

「初恋」が親しまれているワケとは

 「日本の近代詩歌の中で最も愛される作品」と著名文学者から評されるように、昭和43年(1968)刊行の新潮文庫版『藤村詩集』は70刷62万部に達しました。また、46年(1971)には「初恋」にメロディーをつけた舟木一夫の歌が大ヒットし、同時に原作も再注目されるようになりました。

 では、「初恋」はなぜ今なお多方面で親しまれているのでしょうか。

  筆者が勝手に解釈すると、前述したように、それは「共感すべき点が多々あるから」だと思います。つまり、現代人の感性と詩の感性はとても近しいところにあるのです。詩の分析に入るための予備知識はこれくらいで十分でしょう。

 お待たせしました!では、実際に本文の分析を進めていきましょう。

 

 

いざ、分析開始!

 ~本文~

まだあげ初めし前髪の林檎のもとに見えしとき前にさしたる花櫛の花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて林檎をわれにあたへしは薄紅の秋の実に人こひ初めしはじめなり

わがこゝろなきためいきのその髪の毛にかゝるときたのしき恋の盃を君が情に酌みしかな 

林檎畑の樹の下におのづからなる細道は誰が踏みそめしかたみぞと問ひたまふこそこひしけれ

 

~題名の考察~

 この詩は、4つの連から構成される七五調の文語定型詩であり、題名をただの「恋」ではなく「初」をつけることで特別な恋ということを印象付けています。このように作者は題名から、読者を遠い幻想的な雰囲気に誘い込んでいるのです。(と思われます)

 

 

~第一連~

 第一連は、作者が林檎の木の下にいる少女を遠くから眺めている様子を書いてあります。「まだあげ初めし前髪」という出だしで始まりますが、ここで「まだ」という表現を付け加えることで少女の幼さ、結い上げたばかりの髪、そして少女は今まさに子どもと大人の境目にいることを強調しているのです。また、作者は少女が林檎の木の下にいることを知っていることから、作者は少女と幼馴染かと推測できます。しかし、なぜか主人公(作者)は少女の元へは行きません。その代わりにただ遠くからひたすら少女を眺めていて、「前にさしたる花櫛の花ある君と思いけり」と感想を述べています。この様子から、作者は急に大人びた少女を前に、髪に花が咲いたように思うほど見とれたと解釈できましょう。また、この一連の出来事から少女との恋が始まるということで、この連は「起」です。

 

~第二連~

 第二連では、主人公(作者)が林檎の実に恋をした経緯、そして少女との恋の芽生えが著されています。二人の関係に何かが起こる、といった期待感を感じさせられることから、この連は「承」を表していると言えます。

 第一連では作者と少女の距離は離れていたのに対し、第二連では林檎を受け取れるほど近い距離にいることが分かりますね。また、「白き」薄紅の秋の実」のようにを対比することで、淡い、林檎のような甘酸っぱい恋を表し、同時に少女の魅惑的な行動が描かれています。

 少女が大人っぽく成長するにあたって林檎の実も色っぽく赤く熟れるように、作中の林檎(林檎の木)は少女のシンボルであります。二連目の後半の「薄紅の秋の実に人恋初めしはじめなり」はまさにそれを表していますね。

 

 

~第三連~

 第三連は恋と告白の成就について様々な表現技法を用いて情景描写しています。前半の「わがこころなきためいきのその髪の毛にかかるとき」は作者と少女の間の距離がどれだけ縮まったかを、ため息を用いながら表現しています。この詩でいう「こころなき」は、無意識に作者の口から洩れたものを指します。また「その髪の毛にかかるとき」という表現は、性的・官能的なニュアンスを読者に与えることから、間接的にも作者と少女の/二人の恋の成就が読み取れます。

 後半の「たのしき恋の盃」は隠喩であり、その後に続く「君が情けに酌みしかな」は、二人の恋心が成就し、お互い青春の美味に酔っている、と解釈することができます。文末に「かな」という切れ字を用いることで、作者は自信の感動、詠嘆を巧妙に表現しています。この連は、恋が成就したという意味で起承転結の「転」に当てはまるでしょう。

 

~第四連~

 第四連は、それ以前の連とは少し異なり、時の経過を表す表現が多用されています。まず、「林檎畑の樹の下に」と始まりますが、ここであえて林檎の木ではなく林檎畑とすることで、林檎の樹の成長、それに伴った作者、少女の成長を暗示してるとも感じ取れます。

 次の「おのづからなる細道」は、二人が林檎の樹の下に通い続けた証、ともいえましょう。ここで敢えて「道」ではなく「細道」と書くことで彼らの一途な恋心を読者に伝えています。それと同時に、時間の経過も表している。最後の「誰が踏みそめしかたみぞと問いたまふこそこひしけれ」では、作者になぜ?と尋ねる少女が描かれています。

 二人が通い続けたからと分かっていながら作者に尋ねる様子から、少女(女性)のいたずらっぽさが見受けられ、そしてその作者もそこがたまらなく恋しいと、「こそ」という已然形を用いて強調しており、二人の息の合った微笑ましい様子が伺えます。また、その一方彼らは二人の恋の進展を振り返っているようにも受け取れます。 

 このような理由で、第四連はそれ以前の連とは少し時間の差がある連であり、今なほ枯れることのない永遠の恋を読者に伝えているのです。こういった理由から、このパートは「結」です。

 

 

~まとめ~

 この詩には、作者の読者へのメッセージというものは特にありませんが、少女が少年にどうして道ができたのだろうと語っている部分は今も昔も変わらない男女の駆け引きや関係性が表れていて何ともユニークであります。また、この「初恋」ではりんごを通して季節を感じることで、二人の関係が変わっていっていることがよくわかります。出会ったのが、林檎の花が咲いている頃。恋が成就したのが。すごく典型的な恋について書かれていますが、そこが逆にこの詩の魅力なのかもしれませんね。

個人的に、構成がはっきりしていて呑み込みやすい印象を受けました。

 

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