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【ベトナム戦争】戦争の原因から冷戦の影響、その後や考察まで<歴史まとめ>

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共産主義を唱える北部と民主主義を掲げる南部の衝突は、多くの犠牲を払った

ベトナム戦争とは?

 

冷戦期(1947~1991)の真っ只中に起きたベトナムの統一と独立をめぐる戦争(1955~75)

 

冷戦期の中で起こった争いの中でこの出来事がもっとも悲惨で、人々に衝撃を与え、世界でもっとも必要性のなかった戦争。それが「ベトナム戦争」。様々な国の思惑が入り混じったこの戦争は、色々な意味でその後の国際社会の変化に大きな影響を与えました。

 

戦争が始まるまでの経緯

 ~東西冷戦の始まり~

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冷戦中の反戦デモ(アメリカにて)


冷戦は、第二次世界大戦終結した直後から始まりました。ソ連は大戦後も東ヨーロッパに残り、自国の安全を保障するために、東ヨーロッパの国々に親ソ的な政権の樹立を求めてとどまりました。この後押しを受けた多くの東欧の国々で共産党が国の主導権を握ります。

 

しかし、この動きを「自由主義」を掲げるアメリカなどの資本主義国家が黙っているはずがありませんでした。

 

それに構わず社会主義を拡大していくソ連。こうして、資本主義国家代表のアメリカと、社会主義国家代表のソ連の溝は深まっていったのです。その溝は、アメリカがマーシャル=プラン(ヨーロッパ経済復興援助計画)を発表した時、東欧の国々が一切応じなかった頃から修復不可能な状態まで発展しました。

 

こうして戦後の世界は、アメリカを中心とする資本主義圏と、ソ連を中心とする共産主義の二つのグループに分かれて対立することになりました。ちなみに、資本主義側のイギリスも、「 ソ連は、バルト海からアドリア海にいたる鉄のカーテンをはりめぐらしている。」と強い対抗心を覗かせていました(チャーチル鉄のカーテン演説)。

 

この二つの対立は、戦火を交えないはげしい争いという意味で 「冷たい戦争( Cold War )」 と呼ばれました。この時世界は二分化されたといっても過言ではないでしょう。これは、どちらが正しいのかわからない点では日本の南北朝時代と通ずるものがありそうです。

 

こうして、戦後のヨーロッパでは、アメリカとソ連による陣取り合戦が始まりました。ソ連は同じ社会主義共産主義 )の国を1ヵ国でも多く作ろうとし、アメリカも資本主義の国を1ヵ国でも多く味方につけようとしたのです。   

       

 

 ベトナムの分裂(原因)

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現在のベトナムの国旗

第二次世界大戦前、ベトナムはフランスの植民地の一つでした。しかし、戦時中フランスはドイツに占領され、ベトナムは日本が代わって統治することとなりました。しかし、その日本もその後戦争に敗北し、これをうけ1945年9月、北部にホーチミン率いるベトナム独立同盟ベトナム民主共和国を樹立し独立することを宣言しました。

 

しかし、フランスはこの独立を認めたくありませんでした。そこで、フランスは南部に傀儡政権を建国します。こうして、南部はホーチミン率いる北ベトナムと争うことになったのです。

 

この戦争は、八年にもわたりましたが、最終的にフランスは破れてしまいます。(第一次インドシナ戦争) その後、ジュネーブ協定(1954)により北緯17度線を境にしてベトナムは分断されました。この際、南ベトナムベトナム共和国と国名を変え、アメリカの後ろ盾を得ました。では、この際、なぜフランスは負けてしまったのでしょうか。それは、ズバリ「ソ連社会主義側がこの時点から後ろ盾となって、支援をしていたから」。

 

しかし、問題の南ベトナムでは汚職まみれでした。これを見た北ベトナムは、武力による統一を試み、南ベトナム開放民族戦線(ベトコン)を結成し内戦を始める決意をします。この状態を見た大統領ジョン・F・ケネディ南ベトナムに4000の特殊部隊を派遣することを決意します。この時は一部の軍派遣のみの支援でしたが、1964年のトンキン湾事件」以降、本格的なアメリカの軍事介入が始まりました。

 

北ベトナムにはその時すでにソ連が後ろ盾となっており、北ベトナムが勝利してしまうとベトナムどころかドミノ倒しのように東南アジアが次々と共産化してしまう恐れがある」というのがアメリカの介入理由であり、ベトナム戦争の発端となったのです。上の文章を読んでわかる通り、ベトナムと冷戦はもともと無関係でした。しかし、不運にもベトナムは米ソのチェス盤と化し、二勢力の“間接的な”戦いの現場と成りはてたのです。

 

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~戦争の実態~

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「オレンジ剤」はこの色をしていた

ベトナム戦争は、北ベトナム側の兵士数はのべ126万人ソ連兵も含む)、対する南ベトナム軍・アメリカ軍は200万人が戦争に参加したといわれており、約20年のうちに大量の死者・行方不明者を出した壮絶な戦いでした。しかし、この壮絶さは、枯葉剤「北爆」なしに語れません。

 

アメリカ軍は、北ベトナムの展開するゲリラ戦に耐えかねて、1961年に「ランチハンド作戦」を開始しました。これは、上空から「枯葉剤」を散布し、表向きは病気を媒介する虫を駆除するというものでしたが、実際は北ベトナム軍が潜む森林を消滅させ、同時に食物を育てる土地も破壊するというものでした。さまざまな薬剤が使用されましたが、もっとも大量に用いられたのは「オレンジ剤」というもの。ダイオキシンなどを含み毒性が非常に強く、多くの動物実験で奇形を生じさせることは広く知られていました。それを承知で、アメリカ軍は「オレンジ剤」の脅威を重々承知の上で使ったのです。

 

この「枯葉剤」の直接的影響のみで亡くなった人でも30万人に及び、一概に比較できるようなことではありませんが、広島と長崎の原爆の被害者数をはるかに上回ります。枯葉剤の散布は隣国のタイやラオスにも及び、隣国の生態系にも大きな影響を及ぼしました。また、ベトナム枯葉剤被害者協議会によると、被害者は第1世代である親や第2世代の子供だけでなく、第3世代の孫まで広がっており、さらに第4世代のひ孫にも疑われるケースが発生しているようです。

 

次に、「北爆」についてです。北爆は、アメリカによる北ベトナムへの空軍による爆撃をさします。1964年の“トンキン湾での米軍艦艇への魚雷攻撃をうけたとするトンキン湾事件に対する報復”という口実でジョンソン大統領が最初の北爆を決行しました。それ以降1968年までにアメリカは約223万トンの爆弾を投下し、ベトナム側の人的被害は約5万人と推定されています。また、この空爆が強く批判されている理由の一つに、無差別爆撃」があります。アメリカは手あたり次第爆弾を投下し、そこに何が、誰がいようと構わず爆撃していきました。

 

この無差別爆撃の影響で、今なおベトナムを初めとする周辺国には不発弾が残っていて、ラオスは皮肉にも“世界で一番爆弾を落とされた国”と呼ばれているようです。ここで忘れてはいけないのは、上述したようにこれらの影響で苦しんでいる人が今も大勢いるということ。道を歩いていたら突然不発弾が爆発して足が吹っ飛ばされた、という事件も、今なお毎年のように発生しています。

 

 

ベトナム戦争終結・まとめ

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両陣営が、得たものはなかった

アメリカからのものすごい攻撃を受けた北ベトナムでしたが、その攻撃に耐え続けました。それどころか、ジャングルでのゲリラ戦では優位に戦い、アメリカ軍を撃破していきます。ソ連などの社会主義陣営はベトナム(北)を支援し続け、アメリカ軍は最大時には54万もの兵力を投入しますが、ジャングル内では物資や食料の供給が困難であった為、実際に最前線で戦ったのは3割ほどだったという事実や、アメリカ本国にてベトナム反戦運動が起きたことなどが原因となり、北ベトナムは大国アメリカに勝利することになります。

 

そしてついに南ベトナムの大統領官邸は南ベトナム開放民族戦線によって占領され長く続いたベトナム戦争は終わりを告げたのです。忘れてはいけないのは、北ベトナムソ連の支援があってこそ勝利を手に入れられたということ。ベトナム戦争ではアメリカが一方的に非難されていますが、アメリカに“狂気”の切り札を使わざる負えない状況まで追い込んだソ連軍にも十分落ち度はあるように見受けられます。

 

しかし…この戦争で得たものは一体何だったのでしょうか。アメリカは敗戦国となったことから資本主義国のリーダーとしての威厳をなくし、更には多くの人的被害を被りました。逆にソ連ら共産圏は戦勝国”という威厳を獲得しましたが、彼らはその威厳以外何を得たのでしょうか。結果論に過ぎませんが、この戦争で北ベトナム共産主義を守ったものの、その後計画経済の体制に行き詰り、「ドイモイ政策」を実施して資本主義を導入しました。こうなったら、あの時の努力は何だったんだ!となりますよね。

 

また、冷戦中アメリカとソ連の直接的な衝突は一度もありませんでした。それは、ベトナム戦争も、朝鮮戦争も、冷戦期に行われた戦争はすべて、二国の“代理戦争”であったことを示します。もし自分がベトナム戦争開戦前に存在していたら、「あなたたちは利用されているんだよ」って伝えたいです。そのあとの悲劇を考えたら。なぜこの二国は争わざる負えない状況まで“溝”を深めていったのか。

 

...それは彼らには「妥協する」という選択肢がなかったからだと思います。誰かが、どこかで折れて、仲良くやりましょう、と言えばそこまででした。しかしアメリカ・ソ連は無理やりでも“弱肉強食”の世界を作ろうとしました。どちらかがもう一方を負かすまで意地でも食い下がろうとしなかった。こう考えると、この両陣営が行ったことは実に単純であります。どんな些細なことにでも勝ちたがり、勝利を得るために手段を選ばなかった。核開発や枯葉剤なんてまさにこの代表例です。自分達のプライドのために、世界を滅ぼす選択肢も捨てない。世界終末時計が終末まであと3分を示したのは有名な話です。

 

最後に、ベトナム戦争アメリカ・ソ連の対立あってこそ起こった悲劇です。社会主義的思想と資本主義的思想が全く異なることは周知の事実です。しかし、お互い必要以上に警戒心を抱き、敵対視しました。それは人間の我が儘であり、プライドでした。

 

平和(?)な今こそ私たちは過去の失敗から学び、二度とこの悲劇を繰り返さないように努めるのではないでしょうか。そして、何よりその中でお互い譲り合う心を育む必要があります。自らの手で自らの居場所を奪う前に。